その年の秋の安闔日、令巽門の前に多くの人が集まっていた。
その中にひとりの若い男が門を珍しそうに見上げていた。髪をひとつに括った簡素な服装であったが、それに似合わぬ騎獣と大きな剣を佩いていた。
「兄さん、柳の人かね」
隣の三人連れに声をかけられた。峯麒が芳に下り、今残っているのは柳の麒麟だった。
「いや芳から来た」
「それじゃあ妖獣狩りか。また騶虞を狙っているのかね?」
それを黙って笑って聞き流すと、再び門を見上げた。
慶の申し出を受けたのは祥瓊や慶王の好意を受けるためというよりも、他の官を安堵させるためであった。慶でなら今後の彼に不安はないと充分納得させることが出来、しかも芳から遠く離れる事ができたからである。
王の月渓への処置に不満があることには気づいていた。それを払拭しなければ王への信頼は生まれない。彼らをまずは安心させることが、自分を忘れさせる一番よい方法に思えた。
さらに自分がいては新王中心の政への切り替えが遅れると分かり、あのあとすぐに国を離れた。
そっと抜け出すはずが、門には峯麒が立っていた。
「もう、行かれるのですか?せめてあとしばらく主上を手伝っては下さらないのですか?」
「はい。私がいてはいつまでも皆が私の方を気にして朝がまとまりません。
お手伝いはしたいのですが、この先を思えばそれはしない方がよいかと。
私の仕事は終わりました」
「そう、ですね」
「お見送りをありがとうございました」
「荷物はそれだけ?」
「家族もおりませんので、何もございません」
別れの言葉を考えていた峯麒は、ふと首に手をやり何かを外すと月渓に手渡した。
「これは?」
「旅の安全のために、おつけ下さい。もう仙ではないし、王宮を離れればまだ妖魔がいて危険でしょう。
これはもしかしたら、このために頂いたのかもしれないと気づきました」
「頂かれた?何か貴重なもののようですが。私が頂いてよろしいのでしょうか?」
「蓬山のそばの五山のひとつにお住まいの天乙様からです。
私が天啓を頂いたあと、鳳や玄武にお命じになり、つつがなくこちらへ下るお世話をして頂きました。
直接お目にかかることなどないはずなのですが、玄武に乗る前にお越しになってこれを下さいました」
綾錦の紐が通した穴もないのに両脇から垂れ下がった玉は薄紅色をしていたが、月渓の手の中に置かれるとその中心が綺羅と瞬いた。
「なぜ私のところへ来られたのかも、これを渡されたのかも分からなかったのですが」
実際の年に関わらず転化した天乙貴人はいつも若い娘であった。
玉葉の成熟した美しさとは違う、儚いまでのたおやかで清らかな姿は柔和な微笑みを浮かべ、柔らかくあたりの空気に溶けるような声で一言添えると、透き通りそうなその白い手にのせた玉を峯麒に手渡した。
―――旅の守りが必要になったときに
玄武の旅が危ないとは思えず不思議だったが、天の理の中で動く者になぜという問いかけは許されないので黙って受け取り、貴人もそれ以上何も言わなかった。
しかし峯麒には、これは天乙が天の意とは関係なく渡してくれたような気がしてならなかった。
そしてもしかしたらこのためにこれを預かったのかもしれないと気づいたのである。あの妖魔が何か頼んでいたのかもしれないと。
手にとってその輝きを見つめていた月渓は首にかけると礼と別れを告げた。
早朝の冷たい空気の中を飛んでいてもその玉はほのかに暖かく、それは嘗てこの騎獣の前に乗っていた娘の身の暖かさをふと懐かしく思い出させた。
その守りの玉のおかげか、妖魔に襲われることもなく十二国の反対側まで無事旅を続けた。
仮朝の末期には、積年の無理がたたり仙でありながらしばしば病むこともあった上、仙でもなくなった身で長旅に耐えられるかと周囲は心配していた。しかし責務から解放されたおかげか
身体を厭いながらの先を急がぬ旅の間に、むしろ疲れも感じなくなり、外貌も徐々に元に戻ってきていた。
それもこの玉の力かと、毎日何度もありがたくそれを握りしめ、その暖かさを味わった。
北の国を抜けての旅の間に短い北の夏は終わっていたが、雁はその位置にもかかわらず至る所に黄金色の実りが拡がり収穫を待っていた。
王の立つ国の豊かさは彼の目にはまぶしく、やがて芳もこのようになるのかとおそらく二度と見ることもないであろう故国の未来の姿をそこに重ねた。
そしてこの春も国中でひとつぶひとつぶ惜しむように撒かれたあの祥瓊の運んだ種は、彼女と慶国にちなんだ名で国中に広まっていたが、すぐに撒く者もいなくなるのだろう。
ぱさぱさして不味い、ただかろうじて餓えから民を守るしか出来なかった種は仮王と同じくその役目を終え忘れられるのだ。
そんな事を思いながら稲穂に包まれた道端にたたずんでいると、畑仕事の男に手を振る若い女が見え、それを見て立ち上がった男に女は駈け寄った。
以前あの妖魔にこちらで一緒に畑仕事をして暮らそうと言った事があった。黙って聞いていた妖魔は、それが適わぬ夢だと分かっていたようだが、それでも顔を伏せる前一瞬うれしそうにしていた。
持ってきた慎ましい弁当を広げているあのふたりは、それがどんなに幸せな生活なのか分かっているのだろうか。それを見ている月渓の髪と衣を揺らした秋の風は男女の楽しげな笑い声も彼に運んできた。
そうして慶まであと一息というところまで来たところで、どうしてもその前に黄海を見たくなりここに来たのである。
芳ならもう秋も深まった頃であろうが、令巽門のある南のここではまだ日の光も強かった。
いまさらこの広い黄海へ入ったからといって、もはやあの妖魔に会えるわけではない。それでもこの一日だけでもあの娘が生きていた黄海へ行ってみたかったのである。
新しい人生を前にして、もし自由になればきっとここへ迎えに来る、という事だけを思って耐えた日々にどこかでけじめをつけたかったのかもしれない。
開門を待つ間に周りの人々に従って小さな祠廟に詣でた。そして進香のために屈んだ時に薄暗い祠の中のその小さな像が目に入った。はっと身を止めて暫くそれを見つめた。
古い記憶の中にそれと同じ姿があった。
―――そう…だったのか。
後に続く人々に押されるようにしてそこから離れて、改めて高く聳える楼閣を見上げた。
開門が近づくと、少しでも門の中にいる時間を増やそうとはやる気持ちを抑えた。
やがて人の上れるとも思えぬほどに高く聳える門の上に人影が見えた。この門を守っている霊獣は天徳といい、その姿は若者だと聞いていた。
王宮で麒麟を仰いで働き、白雉を手にした事もある月渓でも、その人であって人ではない姿は、ここを一歩入れば人の世界とは違う地であることを改めて感じさせた。
天徳のその姿はあまりに遠くてよくは見えないが、細身の姿がゆっくりと宙を下ると、それにつれて幅広の袖が風を含んでひらめき髪がそよいだ。
地に降り立った姿は人影で見えなくなったが、いかに強い妖魔にも開くことの適わぬ重い扉がゆっくりと揺らいで開き始めた。それにつれて崩れた人垣の間から一瞬その扉を両手をかざして押し開いてゆく霊獣の背が見えた。
はじめて見る安闔日の力強い行事に圧倒されていたが、開かれた扉の間から流れ出す生暖かい空気に気づくと、遅れを取らないようにと手綱を持つ手に力を込めた。
門が開き、ふいと貴人の姿がかき消えると、荷物の多い昇山者に先んじて飛び出した。
並んで騎獣を駆っていた騎獣狩りも力一杯飛ぶ騶虞に勝てるはずもなく、すぐにまわりには誰もいなくなった。月渓は深く切り立った道を
一気に抜け、そのまま深い樹海の中へと進んでいった。
そしてさらに騶虞の本能だけを頼りに一直線に飛び続けた。
あの妖魔がいなくなってからは、その後も増え続けた妖魔のために護衛の兵に囲まれてもこのように飛ぶことは適わず、この旅の間も身体を庇いながらのゆっくりした飛び方だったので、全力で飛ぶのは本当に久しぶりであった。
ここがどこよりも妖魔の多い場所のはずなのに、なぜか不安を感じず騶虞も飛ぶことに迷う様子もなかった。
その快感に乗り手も騎獣も酔ったように飛び続けた。
門で行を終えた天徳は青い龍の姿になって空に昇り、木立の中を駆け抜ける青年を見下ろした。
仲間の玉を持つその人間を訝しくしばらく見ていたが、彼に向かってふっと息を吐きかけた。これにより迷うことなく彼の守る門に戻れるはずであった。
幼いころ麒麟を食べてしまうという信じられないことをしでかし、五山からひとり黄海へ追われたあげく、その黄海すら抜け出してどこか遠くを放浪していた困り者の妹は、その後連れ戻され、最近やっと許されて幼体から変容した。
そして野育ちでどうなることかという周りの心配を余所に、どこで学んだのか寿命尽きた先の霊獣の代わりをつつがなく勤め皆を驚かせた。
しかしこの様子ではまた懲りずなにかやらかすのでは、と案じずにはいられなかった。
人と交わることなどない霊獣とはいえ、しかもその長でありながら以前の天乙にも変わり者がいて、人の前に現れては天女の伝説など残していた。それどころか国によっては王の夫人を貴人の称号で呼ぶ。あの妹もいったい何をやっていたやら。
天徳はこの玉が門を越えたことにあれが気づく前に結界を張るべきかと考え、いやおそらくすでに気づいてはいるのだろうが、と迷いながらも長い爪のある指を振り上げた。妹が霊獣と人とでは時も生も共にすることは出来ないことを忘れてはいないことを祈りながら。
そんな思惑にも気付かぬまま、王座からも過去からも解放された青年は髪をなびかせ、若々しい頬に熱い風を受けて、ただ前だけを一心に見つめてひたすらに進んだ。
残してきた芳の行く末も、明日ここを出た後の身の振り方も、慶で待っている人々の事も今は彼を思い煩わせることはなかった。
何も持たない者となったことで失う事を恐れるものはもう何もなく、彼は自由だった。
いつしか彼は声を上げて笑っていた。
笑いは止まらず、彼を目の前にひろがる自由にさらに駆り立てた。
そしてそれに騶虞の咆哮が重なり黄海の深い森にこだました。
鷹隼宮姫談 完