仮朝である芳では、朝議はせいぜい二日か三日おきに行われ、かわりにもっと人数の少ない会議が午前中絶え間なく開かれていた。
王のいる国では政の中心は将来へ向けての計画や定期的に繰り返される事についての大きな話である。しかし荒廃する一方の仮朝では、将来を考える事は出来ず、ただ現状をこれ以上荒らさないで保つための細かい仕事ばかりになり、そのためには少人数の会議の方が都合がよかったのである。
その日もいつも通りで、月渓が出たものだけでも三つの会合が持たれ、特に最後のひとつは冢宰と六官の長のうちの三官長による、いわば月渓にとっては一番身近な官吏による集まりであり、熱心な討議ながらもどこか親しい者同志のやりとりになることも珍しくなかった。
今日はどの会合でも皆楽しげで、さてこの国の状態からいったいどうすればそのような気分になれるのか、と月渓は手元の討議内容の一覧を見ながら首をひねった。
一番の議題はやはり治水であったが、天候の不順は例年通りで渇水であれ増水であれ防ぐことも予測することも出来ず、しゃにむにその場しのぎを繰り返すだけで、いくら有能で熱心な官吏が働いてもその大半の仕事は無駄にな
った。笊に水を注ぐというのが王のいない国での行政の実態であった。
その事に没頭して話し続けているうちに昼になった。
この顔ぶれが揃った時は、気の置けない相手とくつろぐ機会の少ない月渓のためにささやかな習慣として、一緒に昼餉がとれるよう準備されているはずであった。そこで月渓は当然皆が付いてくるものと立ち上がったが、なぜか互いに顔を見合わすばかりで誰も付いてこようとしなかった。
首を傾げて声に出さず目で問うと、冢宰の小庸がためらうように、ご相伴していいのかと尋ねてきた。
「いつも通りなら用意が出来ていると思うが、何か?」
いえ、それならよろしいのですが、と言い今度は皆ひどくうれしそうにいそいそとついてきた。
いつもと変わらない食事の席で見慣れた顔ととりとめなく話をしながらくつろいでいると、妖魔の事など夢に思えたが、やはりこれは後々のこともあり彼らには話しておくべきと決心した。
食後の茶を飲みながらその事を告げるため思い切って顔を上げると、てんでな方を向いていた者達が一斉にこちらを向いたので驚いた。
しかも、なんだ、この期待に燃える目は?
「あ、何か私に言うことがあるのか?」
まるで餌をねだる動物のような
熱心な喜びに満ちた目のどれにも耐えられず、あちこちに視線を移しながら月渓は尋ねた。
皆は互いに目を合わせたが、小庸が代表して口を切った。
「いえ、こちらこそ何か…伺えるのかと思っただけで」
「何、というと?何か?」
「ええ、そのナニでございます」
小庸らしからぬ勢い込んだ言い方に戸惑ったが、何のことかさっぱり分からない。どうもあの妖魔に一日足らずの間に二度も喰われかけたためか頭の回りが悪くなったらしい。
「すまぬが、何のことか分からぬ」
そう言った月渓が本気と分かったとたん、盛り上がりが消えてしょんぼりした男達の姿が残った。
つまらなそうに冷めた茶を飲む彼らを見ていると、心当たりもないがどうも何やら悪いことをした気になった。ちらりと大司寇に助けを求めて目をやるが、何も答えてくれない。大司馬も天井を眺めて溜息をつくばかりである。
建物こそ以前のままであるが、飾り物などは極力しまい込んだというだけではなく、王のいない王宮にはうらぶれたわびしい空気が漂う。いかに月渓が力強く熱心に国を率いても、その寂しさはやがてそこで働く臣下の心をもいつしか殺伐としたものにしていた。
そんな中で月渓が美しい若い娘を王宮に連れ帰り寝所を共にしたという噂は、乾いた土に注がれた水のように皆の心に広がり潤した。
その娘がよく見れば荒れた肌のやつれた娘で、しかもとんでもない性悪か傾城の可能性もあるわけだが、そんなことはあとでゆっくり心配すればいいことと日頃慎重で心配性の彼らが思うほどに、明るい話題として受け取られたのである。
さぞ、月渓自身明るくなっているかと思えば、疲れた様子が見える程度で、あとはいつも以上に仕事に集中している有様。その様子が気になる他の官の方がよほど気がそぞろで仕事に集中出来なかった。
まあ、疲れたのは無理もないだろうがと納得したのだが、気を許した顔ぶれでの食事の時になっても、いっかな楽しげな様子も見られない。少しは浮ついた様子でも見せて臣下の気分を盛り上げるのも王の役割ではないか、と妙な不満すら出そうであった。
前王の残酷な刑罰に耐えかねて反乱を起こした彼らは、もとよりその悪政を憎んで民の命を守ろうとした同志であったが、何よりこの若い鮮烈な気を放つ男に男として惚れた者ばかりであった。
月渓は前王の清廉潔白さに心酔しながらも、やがておごり高ぶった前王后の王宮を嫌って自ら望んで州に下り、その後ほとんど王宮に寄りつかず州の治世に尽くしていた。たまにやむを得ぬ所用で王宮に来ると、すでに澱み始めていた王宮の空気がそのあたりだけ清められるほどに思えた。
今でも豪華な王宮で王の目を盗んで華美を競う国官やその妻女の中に、ほとんど一色の色合わせの朝服を着てひとり凛と立つ姿の潔さが目に浮かんだ。
その月渓が王への信頼と民の苦しみの狭間に悩んでいる姿は端で見ていても息苦しいほどであり、ついに彼が立った時それについて行くのを迷う者はなかった。
こうして王に対する乱に、月渓を慕い道を共にした臣下一同にとって、彼はこの国で一番尊敬を集めしかも愛される者であり、その行動は皆の気持ちに大きく影響した。
しかしもともと真面目な質ではあるが、仮王となって以来多少はあった遊びもなくなり、ただただ国一筋の堅い男になり、そのおかげでなんとか国が成り立っているとは言え、やはりそこは人間の集まりゆえ多少は色っぽい話しでもないと、と月渓を愛すればこそ無い物ねだりをしてしまうのであった。
今朝月渓に会った全員はその襟元からちらちらと見え隠れする赤い徴を盗み見た。それが見える範囲だけでもひとつではないところから相手はさぞ、と期待し、皆は自分の事以上に興奮したのである。
その期待を裏切られてすっかり暗くなったまま、昼の時間は終わった。
さすがに気になったし、先の話しもしておかねばと月渓はその後小庸を残らせた。
「ところで話を蒸し返すが、いったい皆は何を言いたかったのだ?」
小庸も私的なことゆえいいあぐねていたが、よく考えればこれは働くものすべての士気に関わると思い、思い切って尋ねた。
「昨日どこかの娘御をお連れになったとか」
「ああ。それが何か?」
不愉快な事を思い出して顔をしかめる月渓を見て、これは見込み違いの娘を連れてきたのかと小庸はがっかりした。しかし月渓はふと女官の様子を思い出して尋ねた。
「私とその娘に何かあったと案じているのなら心配はないが?」
「心配がないなどと言われることこそ心配なのです」
「ん?」
日頃控えめな小庸も腹をくくって話し始めた。
「無礼な物言いになったらお詫び申し上げますが、よろしいですか?」
「あ、うん」
「皆、その娘を主上がお連れになったことを喜んでおったのです」
「何?」
「よろしいですか?ご覧下さいませ。この王宮を。
嘗てはあれほどに輝いていた王宮に王はなく、黄旗の立たぬ国に目先の希望もございません。もちろんその罪は我々にあることは今更なのですが」
今になってよりによって小庸がそれを自分に責めるのかと思った。しかし話は意外な方へと行った。
「そこへ、主上が若い美しい娘をご寵愛になるかもしれないと聞けば、いっきに皆の心が明るくなったのでございます。
さぞ今日は明るいお顔を拝見できると思い、我々などはちょっとはのろけでもお聞かせいただけるかと思ったのですが」
ご寵愛、のろけ……、この一日の間に起きた現実との差に月渓はがっくりした。昨日は昼飯、今朝は朝飯になりかけ、今夜は晩飯になるかもしれない男にいったい何を言うのか。
しかし小庸は言い始めたら止まらなくなった。
「どうもあまりお気に召さなかったようですが、今日の皆の様子を見るにつけ、今我々にはひたすら国を思って政をする以外の事も必要なのではという気がして参りました。それも主上、あなたが、です」
日頃穏やかな人柄だけに、一旦思い詰め火がついた小庸の気迫は月渓をたじたじとさせた。
「私に…何をしろというのだ」
「よろしいですか?あなたは王なのです。王というのは皆の希望を具現すべき者なのです。その王が、むっつりとくそまじめに暮らしていて、国民に幸せになれと言ってもついてきません」
思わず二人は元の王の時代を思い出した。
あれほど尊敬すべき人はいなかった。熱心に国を治めようとしたが、その頑なさが結局国と自分を滅ぼした。厳しく律する事が人として幸せをもたらすものではない極端な例ではあるが、窮屈な朝廷でだんだん皆が小さくなっていったことを振り返った。
芳はもともとその国民性は地味で生真面目である。十二の国の中でも寒さの厳しい北の気候で生きてゆくためには、奔放さや暢気さには縁が無く、生活でも無責任な事や奢侈、放蕩は嫌われた。
前王はそういった芳らしい考えが行き過ぎた人であった。
今にして思えば、質素を旨とする王と派手好きの王后がうまく互いを生かし合えば意外とよい組み合わせになったのかもしれないとすら思えた。
皆に派手な生活を煽ることと王が立派な目を引く姿を見せる事は同じではなく、多少浮いた話題を提供するのも今のこの状況では必要なこととされているという小庸の言いたいことも理解できないことではなかった。
美姫のひとりでも連れて歩けというのも考えてもいいのかも知れないと思った。
問題は…その第一候補が実は妖魔で、月渓を喰うのを待ってここに居るという事なのである。
小庸は冢宰らしからぬ少々興奮した様子が未だ醒めないようであった。
「昨日の娘はお気に召さなかったのでしょうか?それなら大丈夫でございます。あれ以来主上は誰も寄せ付けないご様子で、皆遠慮していただけ、今日のそのお首を見ただけで次は我もと思った女は少なくないと思うのですが」
「私の首がどうかしたか?」
ぽかんとしたが、小庸が自分の首で指すところを堂内の鏡で見て驚いた。
「こっ、これは」
こんなものを一日人目にさらしていたのかと、月渓はがっくりした。
よほど言い訳をしようかとしたが、妖魔の朝のお茶になりかけた痕だと誰が信じてくれよう。
結局妖魔の話は小庸にもしそびれたままになった。