妖魔は時間の流れの捉え方が人とは違う。人の想像を越える長命なものも多く、時間の長さを細かく意識しない。
従って一日中ひとりで何もすることもなくうつらうつらしながら月渓の私室に留まることは、餌を捕れないことと窮屈な姿をさせられる事以外、特に不満はなかった。
何かいるものはないかと聞きに来る者を喰うのを耐える辛さも、それらと親しくなるにつれて減り、腹の足しにもならぬ菓子や果物を並べてお話相手とやらをしてくれる者の話もよい暇つぶしだった。
「実はおまえに頼みがあるのだが」
そんなある日、月渓が改まったように妖魔に頼み事をした。
「何だ」
「どうせここでぶらぶらしているなら、もう少し着飾って部屋の外も歩き回ってくれないか?」
「この部屋から出るなと言ったのはお前だが。それにこれ以上また何か被せられて縛られるのか」
「この国は今荒れていて、何の夢も希望もない。この立派な鷹隼宮で働いている者ですら殺伐とした気持ちになってきている。
おまえにはよく分からないだろうが、私が綺麗な娘と歩いているとそれだけでも喜ぶ者がいるらしい」
いつもは無表情な妖魔の顔があきれたような顔になった。
「たしかにさっぱり分からん。そもそもここには娘などいくらでもいるだろう」
「ああ、しかしおまえがここにいることは皆に知られてしまったし、ここにまだいるならちょうど良いではないか?」
「――黄海に帰りたくなってきた」
待ちこがれた言葉だが、こうなった今は帰られても困る。
月渓はただでさえ不安定な毎日に妖魔にいつ喰われるかもしれないという問題を抱えることになり、今まで以上にやれる事はやり尽くそうと考えるようになっていた。
だからそれで周りを喜ばせるならと、愛妾も持つことにした。
小庸が勧めるように他の娘の中からと思ったが、新王が立てば逆賊とされる身であることを考えればその運命に罪のない娘を巻き込むことは出来なかった。
となると自分さえ辛抱すればこの妖魔に協力させるのが一番良さそうであった。
せっかくさんざん悩んだあげくここまで決心したのに、その妖魔にこのまま黄海へ帰られては、国と民を楽しませることが出来ないではないかと真剣に焦った。
「王宮をよく見る機会など、使令にならない限り二度とないぞ。せいぜいよく見聞して、自由意志で王宮に住んだただ一人(いや一匹か)の妖魔として他の元使令に自慢してはどうか」
心にもないことを口にする質ではなかったが、仮朝を率いている間に何もない国のためにたとえ口先でも使えるものは使おうと駆使してきたので、熱心に口説いた。
そういえば最近は官吏や商人などむさ苦しいのばかり口説いており、たとえ本性が妖魔でも娘を口説くなどいったい何年ぶりかと思い返した。これでは娘を連れてきただけでまわりが泣いて喜んだはずだと、いつの間にか潤いをなくしていた我が身を振り返った。
こうなったらこれが済めばよい伴侶を得ることを考えようかと思ったが、すぐに自分の前にあるのは、反逆者としての処罰か妖魔の飯になることしかないと気づき、そんな事をひとときでも思った自分を笑った。
妖魔は月渓にこのまま丸め込まれていいのかと思案していたが、それを見ながら、麒麟を喰った妖魔と麒麟を殺した自分ならよい組み合わせではないかと自嘲した。
「やはり私には無理なことだと思うのだが・・・・・」
言いかけて月渓を見た妖魔は、こちらに来てから会ったここの人間がいずれも自分に会うと妙にうれしそうにしていたことを思い出した。
今まで出会った人間は妖魔の姿に逃げまどうばかりであり、こちらも食い物にしか思っていなかった。気まぐれで人の姿をとってみても胡散臭げに見られただけであった。
今度は使った形が見目良いものだったせいもあるだろうが、やはり月渓の女と思われたからこそ寄せられた好意だとわかっていた。
周りの者が彼に寄せる並々ならぬ信頼と尊敬そして愛情は妖魔にはいずれも初めてのものであった。
あまり知られていないことだが、妖魔は食べた相手の力を得る。それは麒麟と使令の関係だけではなかった。たいていの人間や獣では長年たらふく食ってもほとんど影響がないので、気づかれていないだけであった。
昇山の列を妖魔が襲う理由のひとつはその中に王になるかもしれぬ者がいるからで、鵬と呼ばれるそれを食べればすでに王である者ほどではないにせよかなりの力になった。
それは妖魔がここまで月渓についてきた理由のひとつであった。仮王であるなら王に近いものがあるかもしれず、鵬の可能性もあり、これを逃がす手はない。
しかしこの男が鵬かどうかに関わらず、国ひとつからこれだけの尊敬を受けているならただの昼飯にはもったいない男かもしれない、とふと妖魔らしからぬ事を思う事もあった。
妖魔にとってたしかに王宮に自由に住む経験もおもしろいが、それ以上にこの男とそのまわりの者たちに興味を持ち始めていたのである。
妖魔が易々と住み着けるほどに荒れ果てた国で、いつ見つかるかわからぬ王を待つしかない哀れな人間どもだが、実際に会ってみた人々はその中で営々と日々を過ごしていた。
そんな連中を自分があの鬱陶しい衣を着て歩き回るだけで喜ばせるというのも珍しい経験でおもしろいのかもしれない。
今までに人を喜ばせた妖魔など、王宮に住み着いた妖魔以上に珍しいはずだ。
最近はこんな茶番はそろそろ自分には限界と思い、鵬でもなんでもよいからさっさと喰ってしまおうかと思ったりもしているのだが、うれしそうに自分の世話をしてくれた女官達の声が耳から離れなかった。
――本当にうらやましい事なのですよ。あの月渓様のお目にとまるなんて
――毎日お忙しくされるばかり、お寂しいかと案じておりました
――優しくして差し上げて下さいましね
今までにこれほどの何かを他者から寄せられたことがあったかと思った。
気がつくと、了解したと月渓に言っている自分がいた。
それをうれしそうに聞く男を不思議な男だと思った。いつ喰われるかもしれない相手を身近に置きたいのか。そして王が決まればお払い箱になるかもしれない国のために一生懸命働いているという、妖魔には理解しがたい男であった。