結局妖魔はそのまま王宮に留まり、窮屈そうに着飾らされ、時々月渓と共にあちこちに顔を出した。
初めて妖魔を見た人々の中には、当然だが元公主にうり二つなのに気づいた者もいたが、彼らは月渓が密かに公主を慕っていたと思い込み、王を倒すに当たってはさぞ複雑な想いがおありだったのだろうと考え、この事で月渓は一層皆の同情を集めることとなった。
そしてもっともらしい悲恋話が飛び交った。
それによれば、相思相愛の月渓と祥瓊であったが、王の死後月渓がさっそく祥瓊の仙籍を剥奪したのは自分に相応しい年頃にまで成長させるためであった。
そして彼女を恵州へ連れ帰り二人で愛の日々を過ごしていたが、両親の敵と愛し合う自分に娘として耐えられなくなった祥瓊は愛する月渓と涙の別れをして、二度と会うことのないように一番遠い慶へ去った。
こうして祥瓊を失った月渓は、思い出の多すぎる恵州を去って、王宮で誰も愛さずただ国務一筋の暗い人生を過ごしてきたが、うり二つの娘を得て再び生きる喜びを見つけたというものであった。
この悲恋話は後に王宮から下へも伝わり芳全土で婦女子の涙を振り絞らせただけではなく、やがて他国へも流れ、先々でいろいろな尾鰭が付き名前や国の名も変わり広まり続けた。
秦の文姫は放浪癖のある兄が巧の土産として持ち帰ったものを読んだが、そこでは芯国の分公主(これ、誰よ)が眞王と眞麒を殺した(昭彰には見せられないわね)香州侯(あんなハゲはいやっ)と、愛し合う話になっていた。
そして祥瓊が読んだのは氾麟梨雪からの贈り物で、本当は十八歳以下には売ってもらえない本なので蠱蛻衫をかぶって自分と祥瓊の分を買ってきたのよ、という手紙が添えられていた。うちの主上は先にご自分の分をお買いになったけど私には読ませて下さらないので、と。そして桂州城編は本当にすごかったわ、と書かれていた。
いったい何なのと祥瓊は桃色の花を散らした薄紙で覆われた小さな本を開いた。
帷の間からついと突き出されたのは小さな白いつま先であった。
近づいた月瓊は膝を折り、指先でそのつま先を辿って帷の中に手を差し入れると、華奢なくるぶしを捕らえた。そして目の前の紅梅色に染められた爪にそっと舌を這わせると、そのままつま先をその付け根まで舐め上げた。
そしてその感覚にぴくりと跳ねる足が彼の手から逃れることを許さず、小さな足指をゆっくりと一本ずつ口に含み、……なんたらかんたら……指先がすべるその先で色づいた身体が大きく反り悶えた。
「あっ…」
……またなんたらかんたら……
「なぜやめるのじゃ」
幼い声が帷越しに不満を伝え、そのつま先はもう一度月瓊の手の中へ潜り込もうとあたりを探っていた。
「まだお若い公主にこれ以上の事をしては男として許されません」
月瓊は苛立たしげに小さく震える足先のほんの少し先で答え、かかったその息でつま先はまた震えた。
「ではもう少し年をとっておればよいのか」
「そのような事、王がご健在で公主が公主であられる限り決して適わぬ夢物語。拙にはそんなことは思うだけ切のうございます。さればこの身は年相応の相手と毎夜睦み合いながら、心の中だけで公主の事をお慕いしてゆきたいと存じます」
彼は男らしくきっぱりとそう言い置くと、では、と立ち上がろうとしたが、突然祥渓が呼び止めた。
「明日夕の刻、西の園林で王はおひとりになって読書なさる予定」
「供は誰もいないのでございますね」
「――いない」
「では王と二人だけでお会いして、密かなお願いをするにはちょうどよいかと」
「……月瓊、待っている」
「はい、きっとよいお知らせをお持ち致します。そしてそれがうまくいった暁には御身はすべてわたくしが頂戴いたします。よろしいか」
「……許す」
返事の代わりに再び小さなつま先に口付けた桂州侯月瓊は、その薄い唇に会心の笑みを浮かべ、帷の中の娼婦の性を持つ幼くも高貴な肉体を見つめる宵闇の色の瞳の闇はいっそう深まった。
そして御前を下がるとすぐに他の州侯を集め……。
祥瓊はばさっと本を置くと、すぐに陽子付きの女官に会い行き、当分範からのいかなる荷もまず自分に検分させるようにと言った。その危険な企てがあるとかなんとかいう理由に驚いた女官は、昨日氾王からの少し厚みのある親書が届いておりましたが、すでにお渡ししてしまったので、と祥瓊に心配そうに相談した。
祥瓊が悄然と部屋に戻ると、桓魋と鈴が、座って小さな本を読む浩瀚の手元を両脇から覗き込んでいた。
「なっ、何しているの、人の部屋でっ!」
咎められた侵入者達は何をという顔をした。
「だってお茶に来いって言ったじゃない」
「お前、こんな事……」
「不思議ですね、このふたりの名にはどこか聞き覚えがあるような、さてどこで聞いたのだったか」
本を下ろさず浩瀚はさらりと言ってのけ、他の二人も再び真っ赤になった祥瓊の方を見もせずに食い入るようにまた読んでいた。
金波宮に罵声と金切り声が響いたが、よもやそれが某国の元公主であり巷で最も愛された悲恋のヒロインのモデルの発したものとは目の前の三人以外は誰も信じなかった
「月渓のばか〜〜、氾王のばか〜〜。みんな、みんな、大っ嫌いっ」
そんなこととは関係なく、妖魔は相変わらず夜になると闇に紛れて食事に出かけ、湯殿に窓から滑り込んで温泉を楽しむと、月渓の臥牀の端に潜り込んだ。
妖魔の肌は最初は荒れた祥瓊の姿のままだったが、それを女官達は一生懸命手入れした。
そこでいったいどんな風にしたいのかと尋ねたら、どうやら月渓が思い浮かべた小さい方の姿の肌に近いと分かった。そこで少しずつそれに近づけると女官達は大層喜んで自分たちの腕を誇った。
王宮に華やぎをとの目的があっても、通常の王宮とは異なり華美になりすぎないようにとの制限もあり、外側をあまり飾れないのを取り返そうと、女官達は妖魔の肌の手入れに拘ったのである。
起きている間は窮屈な服装をさせられるかわりに、寝ているときは何も纏わなくていいしなぜかその方が喜ばれると知った妖魔は、いつもそのままの姿で寝ていた。
十三歳の日に焼けることも知らない瑞々しい肌の十六歳のしなやかな肢体を申し訳程度隠しただけの寝姿は、女の目すら楽しませるほどに美しかった。
そして昼寝ばかりしている妖魔を見て、女官達は、さぞ夜がお激しいのね、と満足げに頷きあい一層肌の手入れにいそしんだ。
そして相変わらず何も分かっていない月渓は、激しい政務に疲れ果て、毎晩一人で熟睡していた。
州侯時代から命まで狙う敵がいなかったわけではなく、武人としての心得もあるので、寝ていても気には聡いのであるが、夜明けに妖魔が出入りするのも同じ臥牀に滑り込むのも全く気にしなくなっていた。
そして朝起きると、傍らの妖魔がちゃんと人型をとっているのを確認してその色形には他の者と違い何の感動も覚えないまま、薄い上掛けを引っ張ってその身体に半分だけ掛けた。それ以上は鬱陶しいとはね飛ばしてしまうと分かっていたからである。
被衫は相変わらずわざとらしくあちこちに投げ置かれたが、臥牀の皺ひとつからすべてを見通す年嵩の女官の目はごまかせなかった。しばらく様子を見ていずれ月渓を問いつめようかと思ったものの、彼のことなので何かあるのだろうと協力する気になった。
おかげで、妖魔は王の寵愛を一身に受ける愛妾として遇され、程良く皆の気晴らしを相務めた。