寵姫暮らしにも多少は慣れた頃、妖魔は初めて月渓と王宮の外へ出かけることになった。
人の姿での外出も初めてで、高位の女官の外出姿程度とはいえ、豊かな髪を結い上げていくつもの歩揺や簪もつけた襦裙姿で月渓の視察に付き従ったのである。

行き先は首都の蒲蘇から少し遠いいくつかの里であった。
冬の間里に集まっていた農民がそれぞれの農地の自宅に戻る時期も近づき、その前に彼らの声を聞いてまわるのが目的であったが、おそらく十分な日の恵みのない夏を越す事になるに違いない彼らを励ます狙いもあった。


里家の土間に入ると農民が集まっていた。
話してみると今年の春は家に戻らないという者もいた。聞けば昨年の収穫が少なすぎて冬の間食べるのがようようで、秋の収穫を待つ余裕がないと言うのである。
となれば農奴として働くしかないが、すでにそれを雇える者もこのあたりでは少なくなり、遠方へ行かざるを得ないとの事であった。島国なので妖魔のいる海を渡って他国へ行くことは困難で、おいそれと難民にもなれなかった。

王が自ら出向いて様子を見に来てくれた事への感謝と感激の気持ちはあっても、来年まで飢えずに年を越せるかどうかも分からない彼らには国への要望など聞かれても何も言えなかった。

沈痛な空気が里家の土間を満たした。
そこに開け放った窓から外の物音だけが響き、まだ芽吹かない枝が擦れ合う音や痩せこけた鶏の声に混じって、ひときわ高く子供の声が聞こえた。
子供の減ったこの国にもまだこれだけの子供がいることに、沈みかけた心を少し和まされた月渓が耳をすましていると、小姐〈ねえ〉ちゃん、小姐〈ねえ〉ちゃんという呼び声がした。窓越しに見ると、連れてきた妖魔が数人の子供に囲まれていた。

表紅に裏蘇芳の紅梅の襲の色目が、まだ冬枯れの残る田舎の風景の中に花のように立っていた。貧しい服装の子供の中で、その艶やかな姿は別世界のようであった。

王宮の官の前ならともかく、日々の暮らしの苦しさであえいでいると分かっている村里に彼女を連れてくることに月渓にも迷いはあった。その落差は前の王后の民を省みない奢侈を思い出させ、彼への民の失望に繋がりかねなかった。それでも何か予感のようなものがあって、あえて連れてきたのである。

子供の中にひとり立つ娘は、最近覚えた王宮用の真面目くさった笑顔ではなく、もとのぶっきらぼうな無表情であった。
子供に取り囲まれたことなどないはずで、どうしてよいのか分からないのだろう。
連れてきた官には女の官吏もいたがもっと年上で世慣れた風であった。それに比べるとまだ女とも言えない年頃の姿と作らない表情が子供にはかえって親しみやすかったのかもしれない。ひらひらした綺麗な着物や飾りも彼らには羨望の対象ではなく、鳥の羽や花びらと同じくただ目を喜ばせるばかりで、もの珍しかったのだろう。

気がつくと他の農民もそちらを見ていた。

「きれいな娘さんだねえ。公主さまでしょうか?」
ひとりの農婦が傍らの月渓に尋ねた。それまでは、こちらの身分に遠慮しているらしく直接月渓に声をかける者などいなかったので少し驚いた。

また外を見ると、それはたしかに嘗て見た公主の姿を元にしていたが、公主は農民の子などとは遊ぶことはなかったし、王宮の子供と遊ぶことすらあまりなかったはずである。むろん里家ではあのようなものは着ていなかった。

そこまで考えてやっと農婦が言う公主が祥瓊のことではなく、自分の娘かと聞いていると分かった。
「いや、私の連れだが、娘ではない」
そう答えると、農婦は少し慌てて伏してわびを言い、月渓は照れくささを押さえてそれを止めた。

王の連れだそうだと囁きが交わされ、さらにまわりの興味を引いたようで、皆は熱心に外の姿を追った。
妖魔はいつの間にか遊びの中に引きずり込まれたようで、遊び方も分からないまま何やらやらされていた。あれでは今夜はさぞ愚痴を聞かされるだろうとおかしかった。

その姿は農民たちにひととき夢を見せた。
雲海の上には天女が住んでいて里に降りて来て童と遊ぶ。それは餓えも寒さもない世界だった。そしてその天女は目にすることもない天帝とは違い、着ているものは違っても自分たちと同じ生きた娘だった。

実はそこにとんでもない誤解があるのだが、それを知るのは当然月渓だけであり、そして仮とはいえ王であるその月渓に萎縮していた農民は、その娘を連れとすることで月渓もたしかに生きている人間であることに気づいたようだった。
そして雰囲気が変わるとまでは行かなかったが、ぼそぼそと農地について話したりするようになった。



そうするうちに、月渓に裏山の古いため池を見てもらおうという話になった。長く使われていないが、今後の日照りを考えるとこういうものを生かすのも手軽で確実な方法と思えた。

ため池は裏山の少し寂しい木立の中だった。
そこまでの小道で月渓の後で説明しながら案内していた男の声がふと途絶えた。なにか感じて振り返った月渓の目の前で、もうひとりの農民が真っ赤な大きな口に飲み込まれようとしていた。
悲鳴を上げる間もなく青い影に飲み込まれた姿を見て、月渓と護衛の兵は剣を鞘から祓い構えた。二人の兵と互いを背中合わせにして陣を作ったが、すぐに背後の気配は消え、またその兵が飲み込まれるのを見るしかなかった。そしてあと何匹いるのかと思う間もなく残った兵もあっというまに掠われた。
最初の農民が消えてから全員消えるまでは、ほんの僅かな間であった。
ひとり残った月渓が、結局妖魔に喰われるのかと諦めたその時、一際大きな醜い青い姿が現れた。
身近に妖魔がいて一日中いつそれに喰われるかわからない日々を過ごしているおかげか、このような恐ろしげな姿と対峙しても自分でも驚くほど落ち着いて剣を振う事が出来たが、どう戦ってもかすり傷をつけるのがやっとであった。そして ついに鋭い爪を背に立てられ倒されると地面を引きずられた。そして頭の後に妖魔の息を感じた時今度は一気に身体を引き上げられた。

背中から響く激痛に歯を食いしばりそばを見ると、彼に爪を立てたままの妖魔を、見慣れた黒い妖魔がその触手で締め上げていた。青い妖魔が月渓を盾に逃げ回るので、黒い妖魔も一発で仕留めにくいようであったが、やがて触手の締め付けに力を失い青い妖魔は崩れるように倒れた。

黒い妖魔は倒した妖魔の下敷きにならないよう素早く月渓の身を庇うと、細い触手を器用に使って痛みで声も出ない月渓の身を抉っている大きな爪をそっと外した、そしてさらに多くの触手で彼の様子を確かめようとしたようだったが、遠くから彼らを呼ぶ声が聞こえるとすぐに離れた。
かさかさと微かに木立に擦れる音が遠ざかるのを聞きながら月渓は気を失った。


やがて帰りが遅いのを心配した人々によって月渓は見つけられ、すぐさま王宮へ運ばれる事になった。
急ぐので騎獣に乗せるしかなく、意識のない身体を支えるために兵が同乗しようとしたが、しばらく姿の見えなかった愛妾がどこからか戻って来ると、さっさと虞に跨り月渓を受け取ろうと手を出した。

先ほどまでとはうってかわって髪は崩れ、着崩れた襦裙は今にも脱げそうな有様で、こちらも妖魔に襲われたのかと皆を心配させたが、問われても何も言わず、一応怪我もないようであった。たとえ元気でも途中で月渓を落としては大変とまわりは反対したが、言い合う時間も惜しく、娘の意志の強そうな顔に負けた周囲の者達は諦めて任せた。

幸いか弱い娘にしては力があるようで、ぐったりとした月渓を落としもせず王宮まで運ぶと、禁門の兵に無事引き渡した。