月渓の傷は深く、仙とはいえその治癒にはしばらくかかった。
その世話は娘がするのが当然と思われたようで、妖魔は今度は病人のそばに座り、水を飲ませたり果物を食べさせたりする羽目になった。
「まったく、こんな事をさせられると分かっていたなら見殺しにすればよかった」
書類を読むために半身を起こしてくれと頼まれた妖魔は、ぼやきながら少々乱暴に抱え上げた。しかし乱暴に見えてその実どこも痛くないよう気を使っていることに月渓は気づいていた。
水を飲ませる時も、最初は月渓をびしょぬれにしたりもしたが、今ではよい案配に飲ませてくれるようになった。
さすがに昨日、ご清拭ですがご自分でなさりたいですか?と聞かれた時には盥を抱えた女官を睨みつけて逃げ出していたが。
それを思い出し、
文句を言う娘の姿を見上げながらくすりと笑うと、ふんと言って離れてまた座った。
それにしても長い時間黙って座り込んでいる事が苦にならない妖魔は看病にはうってつけで、食事もろくに取らずに寝る時(実は食事に出かけるのだが)以外離れようとはしないその健気な姿は、王宮中の噂になり、躾も出来ていない氏素性の分からぬ娘をそばに置くことに反対していた者も何も言わなくなった。
滅多にない暇の出来たこの機会を使い、月渓は話し相手にはとてもなれそうもない妖魔に、退屈しのぎも兼ねて文字を教えた。妖魔は言葉は話すが文字が読めなかった。
「いったい何で妖魔に文字がいるのだ」
月渓がそれだけの知性があって読めないとは意外だと言うと、ばかばかしい事と思ったようだった。
「妖魔は来るなと国境に札でも立てたいのだろうが、無駄なことだ。だいいち黄海のどこで書物を手に入れるのだ」
それでもそう言う妖魔に月渓は文字を教え、文句を言いながらも妖魔はそれを覚えた。
「お前の姿の元になった公主は、胎果である慶の女王付きの女史になって文字を教えられているそうだ」
手本の文字を書きながらふと月渓は言った。
その懐かしげな表情をそっと盗み見た妖魔はますます不愉快になった。
「では字が上手だったのだな」
月渓はそれを聞くと黙って傍らの文箱を開き、一通の書簡を見せた。
妖魔にはまだほとんど読めなかったので、内容もその文字がどの程度達筆なのかも分からなかったが、曲線を描く線描が白い紙の上にほどよく散らされ、その線の柔らかさが書いた人の優しさを想像させた。
「それにしても、あの時の事は本当に感謝している。よく襲われたことがわかったな」
「なに、自分の餌を守っただけだ」
餌である事にもいい事があるのだなと言うと、照れくさそうにプイとそっぽを向いた。
「それより出来れば掴まる前に呼んでくれ。たいした奴らではないのに、おまえを避けて倒すのはちとやっかいで、ぐずぐずしているとこちらがやられそうになった」
そう言うと袖を捲り上げて白い腕に走る数本の赤い筋を見せた。
すで治った跡のようであったが、ふっくらした色白の腕に走るその痛々しさにはっとした月渓が思わず指でそれをなぞると、ぴくりと腕を震わせて妖魔はすぐに腕を仕舞った。
「あの時にやられたのか」
「自慢するわけではないが、傷を付けられたなど始めてのことだ。とにかくあんな小物の妖魔を倒しても自慢にもならぬだろう、逃げ回る事だな」
「そうしようと言いたいところだが、一匹でも殺してまわらないとまた他の者が襲われるのだ」
難しい顔をしている妖魔に、うっかり同族の事で気を悪くさせたかと様子を窺ったが、妖魔はそれ以上何も言わなかった。
話を変えようと、助けてもらった礼に何かないかと聞かれた妖魔は、着るものに注文をつけた。
「あの時、衣から抜け出すのはまあなんとかなったが、そのあと一人で着れなくて大変だった。なにより髪がなあ」
妖魔はぼやいた。
「昼間は夜と違って結い上げて飾りもついているので、紐や櫛が付いたまま戦ったのだ」
それを聞いた月渓は笑いが止まらなくなり傷に響いて困った。
妖魔はそれを恨めしそうに見ていた。
「あっちこっち引っ張られて痛かったんだぞ」
「わかった、もう少し簡単な髪型にするように女官に口添えをしてやろう。なるほど、だから麒麟は髪を結わずに垂らしているのか」
月渓はなんとか笑いを抑えると、約束した。
そこでうまく説得できるかどうか自信がなかったが、まずは一番親しい例の年嵩の女官に頼むことにした。
「生まれたところではあまり髪は結い上げないらしい。軽く括るだけにしてやってくれないか?衣の枚数も出来れば減らしてやりたいのだが」
美しい娘の髪を結って飾ることは、女官達の楽しみでもあったので渋られた。
「あちらはあちら、こちらではそれなりの格好をしていただかないと。
王の寵姫となれば誰の目にも美しくなければ国の恥でございます。
もとより朝の状態も鑑みそんなに華美にはしておりません。
これでももっともっと飾って差し上げたいのを皆辛抱しているのでございます。
これ以下ではみすぼらしくなってしまいます」
たしかに妖魔を愛妾という事にしている理由を考えれば、他の目を楽しませる必要もあった。
それでもこれからいざという時にその力を借りなければならないと分かった以上、髪型に月渓の命がかかっていた。
まだ残した仕事を思えば命を惜しまざるを得なかったので、説得の言葉を探した。
「実は、私が簡単な垂らしただけの髪型が好きなのだが。あまりたくさん衣を重ねたり帯で縛ると窮屈そうにしているし」
相手のそんな事は受け付けませんという顔に引き下がりかけたが、それでも咄嗟の時に手早く脱ぎ捨てられる服装と髪型はどのようなのだろうと考えた。
「では見た目は凝って結い上げていても着込んでいても、すぐ解ける髪型や着方というのはないだろうか。あるいはすぐにまた元通りに出来るものは」
女官は月渓の顔をじっとにらんでいた。月渓に心酔していたが、長年使えておりその考えを読むことも出来、いざというときは遠慮もなかった。
「つまり、手早く脱ぎ着出来るようにして欲しいのですか?」
さすがよくわかってくれた、と月渓は喜んだ。
「よろしゅうございます」
そしてくるりと向きを変えて部屋から出てゆきながら言った。
「いやらしゅうございますよ、月渓殿」
その言葉の意味するところに気づいて、残された月渓はまたがっくりと落ち込んだ。