2005.06.02 サイト10,000打記念
続きを書いて頂きました。お見逃しなく下をご覧下さい。女王付きの女官は、朝のお支度にうかがう前にいつも通り夜勤の詰め所へ寄った。
それは陽子のお身の回り一筋の彼女の一日の始まりである。
ただ華やかに着飾らせるならむしろ簡単かもしれない。しかしこの女王のお好みに従って一見簡素で動きやすく、かつ女王として恥ずかしくないようお見立てするのはそう誰にでも出来るものではなかった。
ましてお忍びのお出かけのご用意となると、市井に紛れて目立たぬようにしながら、そのご身分を明かすことがあっても恥をかかないようにしなければならない。しかもそんな時でも彼女としてはあの美しい髪と瞳の色を引き立てるものを考えてしまう。それはどんな盛装のお世話よりも修練を要した。
そしてこの年月の間に陽子には延王のようになんとか自分の好みを受け入れて貰えるようになったと満足させながら、女王の気付かぬところで密かに質や細工への目利きの腕と趣味の良さで存分に腕を振るい、王を目にした人々の密かな賞賛の視線に面目を施し仕事に誇りを失わずに済んでいた。
しかしそれほどの仕事をしながらもいつの頃からかそれにどこか物足りなさを感じるようになったのは、陽子を公の場で王として、あるいは近しい友として見る者の視線しか楽しませることが出来なかったからかもしれない。
それは男を愛し愛された女の醸すものこそ、彼女が心を砕いて整えた衣装の美しさを完璧なものにすると考えていた彼女には当然の不満だったかもしれない。
そのためこれほど美しい女王のお身の回りをお世話できる彼女があとひとつ望むとすれば、愛する相手に見せるために身を飾る陽子を手伝う事であり、いつかそんな日が来ると信じて待つこの忠実な臣の密かな楽しみは、衣装蔵の一画に今の陽子には相手にされそうもなく見せることも適わぬ柔らかな素材と色合いの品をせっせと溜め込むことであった。しかも厳密であるはずの王宮の職務の割り振りによれば彼女は日中の衣服の担当であったが、その中には被衫としか見えぬものもあり、これは仕事の合間にちょっと仮眠をされるためと言い訳をすることにしていたが、肌に着ける物に至ってはもしこんなものが官服の胸元からちらりとでも見えれば朝議の争いなど吹き飛びそうなものも混じっていた。
そのように陽子と仕事についてで頭がいっぱいであったため、夜勤との引き継ぎにはさほど関心を払っていなかったし、たとえこっそりお出かけになったとしてもその安全については山ほどいる日々それを気に掛ける者達に任せて、彼女としてはお休みの時間が減ってお肌が荒れていないかあるいはお爪を痛めていないかなどの心配をするだけであった。
夜勤当番の女官はいつもなら少し眠たげに日誌を書きながら迎えてくれるのだが今日は違った。
臥所との間の壁寄りに横向きに座ったまま、こちらを向くとにっこり笑った。
「お支度に伺うのはちょっとお待ちになって。」
「え?」
何事かと問おうする相手を手で制して黙らせると、夜勤の女官はまた姿勢を正した。この古参の女官は宮仕えの年月の殆どをこうして壁の前に座り続け、一見寛いで座っているだけのように見えても、臥所のプライバシーを侵すことなく壁越しにその任に必要な気配のみ聞き分け、主上が必要とされる時にはすぐに駆けつけることが出来るのであった。
とは言っても、今までのところ秘密にするほどの事もたいした用もなく、怪我をされたあとのお痛みで眠れぬようなら薬湯をお持ちしたり、遅くまで書物を読んだり祥瓊などと話し込んでいる様子にそっと夜食を差し入れたりするくらいであった。
むろんそれを知る先の女官は不思議そうにその手元にある日誌を覗き込んだ。
そしていつもなら二、三行の日誌にさりげなく書かれた数行を見た顔がほころんだ。
「まあ、主上……。」
思わずそばにある椅子に座り込むと再びそれを手に取り読み直した。登極されてからの日々を身近に知るひとりだけに、そこに書かれたことはまるで我が事のように喜ばしかった。
衣装を華やかにするために主上に愛を知って欲しいというのは所詮うわべのこと、本心はやはりただただ陽子自身が幸せになって欲しかったと、今なら素直にそれを言えるのが嬉しかった。
「もう、おひとりでお寂しい思いをされることもないのですね。」
気が付くといつもなら引継ぎのため集まっているはずの警備の兵もひとりしかいなかった。おそらく夜勤の兵はまだそれぞれの場所に留まり、引継ぎの兵はどこかで足止めされているのだろう。
今までの事これからの事などあれこれ思いめぐらしていると、夜勤の女官が身を起こして手招きした。
「もういいですよ。早めにお帰りになったはずのお相手が戻ってこられていたのです。」
ひとと顔を会わさぬよう早めに立ち去ったものの、言葉を交わしにあるいは明るくなった光で眠っている主上のお顔をもうひとめ覗き込むために舞い戻っていたのだろうか。あるいは単に何かを置き忘れて取りに戻ったのだろうか。
うれしさに加えてその男の思い切りの悪い振る舞いなど想像すれば、さらに笑いはこみ上げ、いつになく長い時間外で待たされていた若い女官らは、やっと出てきた上司のそのらしからぬ様子に呆れて顔を見合わせた。
「おはようございます、主上。」
女官は再び心を引き締めてなんとか表情を抑えると、まずは奥の臥所に向かって声だけをかけ、支度部屋へ行くと隅の棚から一枚を取り出した。そしてあとの準備は若いものに任せてそれだけを両の腕に抱えてひとりで奥へ向かった。
牀榻に近づくと再び声をかけてからはらりと帷を開いた。
朝の光が絹の帷の襞を通して作る柔らかな陰影の中に、不自然なほど皺ひとつない衾褥の上で紅い髪は一筋も絡むこともなく広がっていた。別れを惜しむ指が梳って拡げたのであろう。閉じられた濃い睫を見つめながら指を動かしている間、男は何を想っていたのか。日が昇りあたりが明るくなるのを感じ、立ち去らなくてはならないことをどれほど惜しんでいたか。
そして何ごともなかったかのように整えたように見せながら、なぜか被衫が陽子の手の届かぬ離れた所に置いてあるのは、衾と髪の隙間にちらりと見える柔肌を最期まで味わうためだったかもしれないが、去った後も確かに彼がここで一夜を過ごした事を思い出させるためにも思え、陽子を得たことへの歓びの中でのその隠しきれない自己主張ぶりにあの方らしいと女官はくすりと笑った。
そして残された陽子は、あちらを向いたまま誰もいない隣の枕に手を伸ばし昏々と眠り続けていた。その手のいじらしさは甲羅を経た女官の心も溶かしたが、急がないと他の者が入ってくる。心を引き締めるとまた声をかけた。
ゆっくりと翠の目が開き、しばらくぼんやりと視線も定かではなかったが、慌てて身を起こすと、広げられていた紅い髪がその動きに合わせて花が閉じるように衾の上を滑ってそのまま今度は白い肌を覆った。それはまるで他の誰にもその肌を見せたくないというかの男の気持ちを髪が代弁しているかのようであった。
その髪にごめんなさいまし、と心で話しかけてかき上げると、陽子は慌てて被衫を目で探したが、女官はまだ少し色づいている玉の肌に手に持った衣をそっとかけた。
「これは?」
いつもの純白のものとは違う曙の光のような薄紅色の衣に気づいて問われた。
「こちらの風習のひとつでございます。普通なら母親が準備するのですが、いつかお召し頂けるのを楽しみにわたくしの方で用意しておいたものです。」
「……」
その言葉の意味する事に恥ずかしげに俯くのは王ではなくひとりの若い娘。
女官は微笑みながらその身体越しに手を伸ばし、枕元に散っていた一本の髪を取った。紅い主の髪とは色の違う髪。それを桜色の衣の刺繍を施した襟の内側の折り返しに挟んだ。
「これで今日一日ちょうど心の臓の近くに……感じることが出来ますよ。」
そういうと軽く帯を結び、いつもと違うぎこちない動きの陽子が寝台から下りるのを手伝った。
そのまま他の女官の待つ隣室へ身支度に行こうとした陽子は、燦々と差し込む朝の光の差す中に一点見馴れぬものを視野の端に捕らえ、そして、あ、と小さな声を上げた。
その視線の先には、窓辺に置かれた花が一本。
陽子が駈け寄って見れば、夜露を含んだ紅い一重の花びらは見ている間にもほころびそうであった。
朝日の中で紅い花と緑の葉を目にした男は、人目に触れるかもしれない危険を冒してまで残してきた彼女のところに戻って来ずにはいられなかったのだろう。
「後で積翠台の方にお持ち致しましょう。」
再び声をかけると陽子は頷き、それでも傍らの花瓶に盛られた豪華な花を取り出すと、そこにそれだけを挿し、名残惜しげに指でしばし戯れた。
朝の光を全身に受け、片腕に溢れるほどの花を抱えたまま、小さな花を愛でる姿は喩えようもなく美しく、これを見ずに去った彼の人が哀れに思えた。
再び促されて陽子が女官と立ち去った後、人気のなくなった臥所に雲海からの風が吹き込み帳をはためかせ、そして一本には大きすぎる花器の中に残された花を茎ごと揺らした。
その静まった気配を確認すると、夜勤の女官は最後の記入を終えて日誌を閉じた。